タイムスリップの断崖で(第6回)

出てからかなり経っているのだが、今日ようやくチェックできた。

  • 絓秀実「「革命無罪」から「愛国無罪」へ――「東風」計測の新・尺度」、『en-taxi』2005年夏号(第10号)、扶桑社

enーtaxi 第10号 (ODAIBA MOOK)

enーtaxi 第10号 (ODAIBA MOOK)

時評「タイムスリップの断崖で」は今号で6回目。あいかわらずの絓節が冴えわたる。

わたしは『マンガ嫌韓流』(すぐ下の記事参照)にたいするアマゾンのユーザーレビューの数の多さ(「1322人中、1253人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています」)に驚いていたのだが、しかし、絓氏の論考は次の一文からはじまる。

いわゆる「プチナショナリズム症候群」(香山リカ)が、どうも沈静しつつあるのではないかという感じがしてならない。(p.154)

その理由として挙げられるのは下記のような事情だ。

もし、私見のように、今やプチナショ的心性が萎縮しつつあるのだとすれば、それは彼らクボヅカ的なウヨが、自らの経済的基盤に気づきつつあるからである。つまり、彼らが経済的な余裕をもって、ストリート系だかヒキコモリだか、フリーターだかニートだかでいられるのは、日本経済がいまだ相対的に崩落をまぬがれているからだが(最近では、景気が回復したとさえ言われる)、そのことを支えているのは中国「資本主義」(!)だということを、である。だとすれば、クボヅカ的「ウヨ」がネオナチ的なものへと進化せず、所詮は「プチ」にとどまっているのも、日本経済の「安定」のためであり、中国のおかげ、ということになる。(p.155)

うーん、おもろい。でもいまのわたしにはこの主張の是非を判断できる用意はない。

ちなみに、論考の後半では、かねてより小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社)について主張されていた「68年の徹底的な軽視」が、道場親信『占領と平和――〈戦後〉という経験』(青土社)にも同様にみられることが指摘されている。また、この状況に「批判的に応接」する仕事として、スラヴォイ・ジジェク『迫り来る革命――レーニンを繰り返す』(岩波書店)と府川充男「経歴詐称常習者平井玄――『歴史の捏造』と『解釈の余地なき事実』」(『情況』2005年5月号)が挙げられている。絓氏の力点はむしろこの後半部分にあると思われるが、残念ながらわたしは二著とも未読である(また、この辺のことはわたしの理解のおよぶ範囲を超えているような気もする)。

en-taxi
http://www.fusosha.co.jp/en-taxi/

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