「説明」「理解」――ウリクト

  • ※[概念]=「根本諸概念(仮」なる構想下にメモを集積する予定。その作業用のカテゴリー。

 *-*

やっと2周目が完了。

まったくもって地味だし、ちょっと旧くなっているところもあるのだが(原著は1971年刊行)、うわついたところのない良書。淡々と分析をつづけていくドライな粘着性にも好感がもてる。


序文
第一章 二つの伝統
第二章 因果性と因果的説明
第三章 志向性と目的論的説明
第四章 歴史学と社会科学の説明

訳者あとがき
文献目録
事項索引
人名索引

まえおき

本書が扱う「説明(Erklären)」/「理解(Verstehen)」とは、ともに学問(科学)上の方法論として、もともとは19世紀に提起された概念対。最初に言いだしたのはドイツの歴史家のドロイゼン(J. G. Droysen/1808-1884)で、哲学者のディルタイ(W. Dilthey/1833-1911)が有名にした。

哲学や科学論に触れたことのない目からすると、この概念対は少し奇妙なものに映るかもしれない。通常の言葉づかいにおいては、説明/理解とは情報の送り手/受け手の区別をあらわしている場合も多いから(説明する人/理解する人)。そういう使いかたもあるけれど、とりあえず、ここでは二つとも学問(科学)の方法論として構想された(説明する学問/理解する学問)と理解しておこう。

前史

ドロイゼンは、自分がたずさわる歴史学は自然科学とは原理的に異なる学問だと主張した。物理学や天文学などの自然科学は「説明」する。つまり個々の現象の観察し、帰納によって法則を立て、こんどは演繹的に、法則にもとづいて個々の現象を導きだす。しかし、歴史学はそのようなやりかたはしない。歴史学において問題となるのは、それぞれ一回きりの人間的な出来事をどのように「理解」するかであり、法則を立てることではない、云々。

ディルタイはこの「理解」を、精神科学に特有の方法論として理論的に基礎づけようとした。この「理解の理論」が、解釈学(的哲学)である。ちなみにここで「精神科学」とは、ディルタイの定義によると「歴史的社会的現実を対象とする諸科学の全体」を指す。いわゆる人文科学、社会科学を合わせた感じ。

ドロイゼンやディルタイがこうしたことを主張したのは、彼らが自身の学問を自然科学の方法論から「守る」または「自立させる」ことを課題としたからだ(その主張が妥当なものであったかはとりあえずおいておこう)。ディルタイはこう言っている。「デカルトスピノザホッブズが、数学と自然科学とで育んできた彼らの方法をこれらの遅れた学〔精神科学〕に転用して以来、年若い妹〔精神科学〕が年上でより強い姉〔自然科学〕によって縛りつけられてきた」(*1)。つまり、人間・社会・歴史にかんする学を自然科学の呪縛から解放しなければならない、というわけだ。(その後の展開として、少なくともハイデガーオントロギー(事実性の解釈学)』『存在と時間』とガダマー『真理と方法』に触れなければならないところだが、諸事情によりすっ飛ばさせていただく。)

ウリクト

さて、ウリクトである。

ウリクトも、本書の冒頭ではいちおう「二つの伝統」を認め、それらを定式化している。説明のほうは、因果論的な説明を行うガリレイ的伝統と呼ばれる。理解のほうは、目的論的な理解を行うアリストテレス的伝統と呼ばれる。

でも、この本のいいところは、説明と理解の区別を性急に自然科学と精神科学の区別に重ね合わせて「二つの文化」(C・P・スノー)の対立を嘆いたり、それらを架橋しようとしたり統合しようとしたり、どちらか片方を持ち上げたりといったことをしないところだ。で、代わりになにをしているか。よく「見る」ことをしているのである。

ウリクトは、こっちは説明あっちは理解という具合にはじめから事柄を区別して整理することはしない(『説明と理解』というタイトルから連想されるのはそういう内容かもしれないが)。そうではなくて、あくまでも(科学的)「説明」の側に立ちつつ――「説明が真に科学的であるために、いかなる条件を満たすべきか」という観点から――諸科学における説明の形式と機能の諸相をあぶりだしていく。具体的には、当時もっとも論議の的となっていた科学的説明のモデルであるヘンペル(C. G. Hempel/1905-1997)の「被覆法則モデル」(本書では「カヴァー法則モデル」)をとりあえずの出発点として、被覆法則モデルが妥当性をもつのはどのような研究領域においてか、逆に被覆法則モデルがうまく妥当しない領域はなにか、被覆法則モデルがカヴァーできない領域についてはどのようなモデルが妥当するのか、というかたちで学問(科学)における説明モデルの分析と分類を行っていくのである。

そうすると、いわゆる因果論的な説明を行うはずのいわゆる自然科学の内部において一種の目的論的理解(彼はこれを「準目的論的説明」と呼ぶ)が見られたり、いわゆる目的論的な理解を行うはずのいわゆる精神科学の内部において一種の因果論的説明(彼はこれを「準因果的説明」と呼ぶ)が見られたりする。このように、一口に学問的(科学的)説明といっても、その内実には諸々の区別されるべき要素やモデルをとりだすことができるのである。つまり、因果論的説明の用語で表現されているにもかかわらずそうでない説明もあるし、目的論的理解の用語で表現されているにもかかわらずそうでない説明もあるということ。それを注意深く吟味しなければならない。これが先に、よく「見る」といったことだ。(*2)

以上は、本書の(見習いたい)スタンスについて。

さて、ウリクトによれば、因果論的説明(ないし準目的論的説明)と目的論的説明(ないし準因果論的説明)とのあいだには概念的な相違がある。前者にたいする後者の相違があらわれるのは、人間の「行為」を研究対象にしたときだ。

前者の妥当性は法則的結合の正しさに依拠しており、後者の妥当性は法則的結合の正しさに依拠していない点において異なる。どうしてか。

それは、行為において意図(原因)と行為(結果)の関係は、因果的(外在的)な結びつきではなく、論理的・概念的(内在的)な結びつきであるから(だからそれらは因果論的説明におけるような原因と結果の関係にはない)。たとえば、「彼は列車に間に合うために走った」という説明の正しさは、走ることと、発車までに駅に到着することとのあいだなどに想定されている法則的結合(あるとすればの話だが)の正しさには依拠していない。その代わり、「列車に間に合うために」という志向的な性格が、彼の「走った」行動を理解するための必須の要素となっている。

ある行動を行為として理解した時点で、そこには志向的な性格がすでに含まれている。これにはなんらかの目的論的説明が必要とされる(「彼は列車に間に合うために走った」)。逆に、身体の状態や運動といった非志向的な行動の場合には因果的説明が必要とされる(「ニューロン刺激によって筋肉が伸縮する」)。「同じ」行動でも、妥当なしかたで因果的に説明されることもあれば、行為として正しく理解されることもある。(*3)

ウリクトは、アンスコム(G. E. M. Anscombe/1919-2001)が『インテンション』においてアリストテレスの考えを継承して発展させた「実践的推論」(「実践的三段論法」)をとりあげ、行為理解の特性を詳説する。

  • 【大前提】 Aは、pを生ぜしめようと意図する
  • 【小前提】 Aは、aを為さなければ、pを生じぜしめることができないと考える
  • 【結論】 それゆえ、Aはaにとりかかる

実践的推論においては、前提の実証と結論の実証とが、たがいに依存しあっている。ある行為が理解される際には、前提が結論にマッチするようなかたちで、実践的推論が組み立てられている。たとえば、彼が走った(結論)のは、列車に間に合いたいと意図したからであり(大前提)、走らなければ間に合わないと考えたからである(小前提)、というように。だから、自然における因果関係と、行為の領域における「因果関係」とを、まったく異なったものとして考えなければならない。

ここで冒頭の説明/理解という概念対に戻ってみる。

まず、「理解 vs. 説明」が、二種の科学的探究(精神科学/自然科学)の相違をあらわしていると考えたら、それはミスリーディングだろう。学問的記述がその対象のなんであるかを明らかにするものであり、そのなんであるかを把握する作用を「理解」と呼ぶならば、理解は、因果論的・目的論的を問わずあらゆる説明の前提条件だろう。

むしろ、なんに似ているか(法則)という意味での理解と、なにを意味しているか(志向)という意味での理解を区別しなければならない。前者は因果論的説明に特有の理解であり、後者は目的論的説明に特有の理解である。そのようなかたちにおいてならば、前者を説明と呼び、後者を理解と呼んでもよいであろう。そして、前者と後者とは、対象が志向的な性格をもつか否かというメルクマールによって区別されるだろう。その意味でなら、大まかにいって、被覆法則的モデルが因果論的説明および自然科学の説明と連関しており、実践的推論は目的論的説明および歴史学や社会科学の説明と連関していると考えてよいだろう。

と、ウリクトはまとめる。

後史

説明/理解のテーマ系として、少なくとも三つの流れを押さえておきたい。

一つめは、もともとの説明/理解のテーマ系を開拓した解釈学(ディルタイハイデガー〜ガダマー)の流れ。たとえば、ポール・リクールは論文「説明と了解」において、本書の内容も視野に入れながら、説明と理解との「弁証法的な関係」を解釈学的に(再)定式化している。

二つめは、当然ながら科学哲学の流れ。たとえば、戸田山和久『科学哲学の冒険』や内井惣七『科学哲学入門』は、近年の科学哲学における議論をとりいれ、本書におけるよりもずっと洗練された科学的説明の理論モデルを紹介している。

三つめは、ウィトゲンシュタインとその後裔たちの流れ。彼が『探究』などでほのめかした説明/記述の概念対とどのように関係するか。それと、マッハ〜『論考』〜ウィーン学団における説明/記述の概念対も。

  • (*1)O・ペゲラー編『解釈学の根本問題』瀬島豊ほか訳、晃洋書房、1977、p.10
  • (*2)前段落と当段落、『説明と理解』の解釈としてはミスリーディングのおそれあり。
  • (*3)当然異論もある。cf. 両立説 vs. 非両立説

解釈学の根本問題 (現代哲学の根本問題 7)

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オントロギー(事実性の解釈学) (ハイデッガー全集)

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真理と方法 1 哲学的解釈学の要綱 (叢書・ウニベルシタス)

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解釈の革新

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ウィーン学団―論理実証主義の起源・現代哲学史への一章 (双書プロプレーマタ)

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