びっくりさせない方法

私の祖母は、浴槽に注いだお湯を止めるのをいつも忘れてしまう。

私がまだ実家で祖母と一緒に暮らしていた時分、このことは私にとって何よりも大きな悩みの種であった。水道代やガス代が惜しいわけではない。そうではなく、お湯がいっぱいにあふれていることに気づいた私がそれを祖母に伝えると、決まって祖母は「アアアァ!(お湯を止めるのを忘れたッ)」(カッコ内は筆者による補足)と驚愕してしまうのである。心臓麻痺でも起こしたらたいへんである。その驚愕のさまがあまりにも激越であるために、私はだんだん祖母を驚かせてしまうことが恐ろしくなってきたのだ。

そこで、いかに祖母をびっくりさせることなくお湯の状況を伝えることができるのかというのが、つねに変わらぬ私の課題となった。なぜこんなことが問題になるのかという点について、ここで少し説明が必要かもしれない。まず、私の両親は自営業(焼肉屋と電話工事)であるため夜分に家にいるのは私と祖母だけであり、風呂問題を解決できるのは私か祖母のみであった、という事情がある。さらに悪いことに、当時の私は部活動その他で夜遅くに帰宅するのが通例であり、いくら私が風呂の準備をすると言っても祖母は一向に聞かず、私が帰宅する頃には決まって「いまお風呂を沸かしているところだから後で入りなさい」となるのである。そこでまた「アアアァ!」の悲劇が繰り返されてしまうことは言うまでもない。

まず私は、言い方を工夫することから始めた。「お湯を止めておいたよ」と言うのではなく、倒置法により「止めておいたよ、お湯を」と言うのである。「止めた(からもう大丈夫だよ)」という事実をまず先に言明することによって、祖母の驚愕を少しでも減じることがその目的であった。しかしこれはまったくものの役にも立たなかった。「止めてお……」の時点で「アアアァ!」となってしまうのである。

次に私は、あるデヴァイスを導入することで解決を図った。タイマーである。お湯を入れはじめてから20分後くらいにベルが鳴るようにセットしておけば、ちょうどお湯がいっぱいになった頃に知らせてくれるはずだ。しかし残念ながら、これも不首尾に終わった。先ほど述べたように私の実家は自営業、しかも店舗が自宅のすぐ近くにあるために、祖母はしょっちゅう店と家を行ったり来たりしているのだが、そのためにいくらタイマーが鳴ってもそれに祖母が気がつく確率は非常に低いのである。私が店を手伝うことにして無理矢理にでも祖母を家に留め置くという方法もないではなかったが、これも先に述べたように部活動に忙しかった私にとっては到底不可能なことであった。

そして最後に考えたのが、張り紙である。部屋のどこか目につくところに「お湯を止めてね!」という意味の紙を張るのである。あいにく祖母は文盲(祖母が若い頃に暮らした朝鮮半島では、婦女子に教育は不要という風潮が非常に強かった)であるため、私は何か図なり絵なりを用いてそれを表現しなければならない。例えば「蛇口からほとばしるお湯、それを否定する大きなバッテン」といった具合に。この解決策は、私に絵心がないことと、冷静に眺めた場合それがかなり滑稽な行為であるだろうことを除けば、なかなか良さそうにも思えた。しかし、私はこの最終案を結局試すことができずに終わった。大学進学のために上京してしまったからである。電話で両親にこのアイデアを伝えても笑うばかりでとりあってくれない。そしてその後私は、そのまま東京に居ついてしまったのだ。

遠く離れて暮らしているいま、今日も祖母がお湯のせいでびっくりしてはいまいかと心配になることがある。今年(あともう少しで終わってしまうが)こそ、「蛇口からほとばしるお湯、それを否定する大きなバッテン」でも描いて贈ってあげようかと思う。そして私のライフワークがついに完結してくれることを切に願う。

【追記】もちろん方法は他にもあるだろう。1.祖母が蛇口をひねりお湯を出した時点で電話または電子メールもしくはチャットプログラム(私は仕事柄ずっとネットに繋がっているのでその点は問題ない)にて私にその旨連絡するように祖母にきつく言っておき、連絡があれば頃合いをみはからって今度は私が祖母にお湯を止める旨伝える、2.もっとシステマティックに家全体をデジタル化+オンライン化(TRONでも導入してみようか)し、祖母が好むと好まざるとにかかわらず、蛇口がひねられたことがすぐさまオンライン上の私にも伝わるような仕組みを構築する、3.さらに万全を期し、万が一私がPCの前にいなくともポケベルでそれを通知するプログラムを作成する、4.端的に風呂に最新の設備を導入する、などなど。しかしこれらの代替案は、それにともなう経済的な負担やネットの現状などを鑑みるとあまりに非現実的であるため、却下せざるをえなかった。

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