エピクテトスからマルクスへ

(政治を)ひとまず「ある範囲の人びとすべてを拘束することがらを決定すること」と定義しよう。
――橋爪大三郎「政治」、『事典 哲学の木』講談社

エピクテトスはストアの倫理をその極点にもたらした。また彼に至って倫理は哲学と外延を同じくすることになる。

エピクテトスは言う。きみが第一になすべきなのは、人生の途上において出会う物事について、それがきみの「権内」にあるのか、それとも「権外」にあるのかを吟味することだ。そして、きみはきみの「権内」にある物事のみを相手にするがよい。「権外」のことをいちいち思いわずらうのは詮ないことだ、と。

諸々の存在のうち或る物はわれわれの権内にあるが、或る物はわれわれの権内にない。意見や意欲や欲望や忌避、一言でいえばおよそわれわれの活動であるものはわれわれの権内にあるが、肉体や財産や評判や官職、一言でいえばおよそわれわれの活動でないものはわれわれの権内にない。そしてわれわれの権内にあるものは本性上自由であり、妨げられず、邪魔されないものであるが、われわれの権内にないものは脆い、隷属的な、妨げられる、自分のものでないものである。そこで次のことを記憶して置くがいい、もし本性上隷属的なものを自由なものと思い、自分のものでないものを自分のものと思うならば、君は邪魔され、悲しみ、不安にされ、また神々や人々を非難するだろう、だがもし君のものだけを君のものであると思い、自分のものでないものを、事実そうであるように、自分のものでないものと思うならば、誰も君に決して強制はしないだろう、誰も君を妨げないだろう、君は誰をも非難せず、誰をもとがめ立てしないだろう、君は何一ついやいやながらすることはなく、誰も君に害を加えず、君は敵を持たないだろう、けだし君は何も害を受けないだろうから。(中略)そこですべて不愉快な心像に対しては(中略)それは何かわれわれの権内にあるものに関係しているのか、或いはわれわれの権内にないものに関係しているのかどっちかという、この第一の、何よりも大切なもので、しらべたり、吟味したりするがいい。もし何かわれわれの権内にないものに関係するならば、「わたしには何もかかわりがない」という答がもう手もとにあるわけである。
――エピクテートス『人生談義(下)』鹿野治助訳、岩波文庫、pp.252-253

エピクテトスは紀元後55年ごろにフリギア(小アジア)のヒエラポリスに生まれた。父は不明。母は奴隷の身分であったという。奴隷として売られて皇帝ネロの統治下にあるローマへ。主人はエパプロディトス(ネロの解放奴隷)。エパプロディトスの許しを得てストア派の哲学者ムソニウス・ルフス(Musonius Rufus)に就いて哲学を学ぶ。いつの時点でかは不明だがエピクテトスはエパプロディトスから解放され自由になった。

エピクテトスにとって政治とは何だったのだろう。長い間奴隷であり、自由になった後も一介の哲学教師でしかなかった彼にとって、政治は徹頭徹尾「権外」のものだったのだろうか。

「秘密を話せ」私は話さない、それは私の権内にあるのだから。「しかしわしは君を縛るだろう」君、君は何をいうのか。私を縛るんだって。君は私の足を縛るのだろう、だが私の意志はゼウスだって征服はできないよ。「わしは君を牢獄にぶち込むだろう」この小っぽけな肉体をね。「君を斬首するだろう」いつ君に私の首だけは切られることのない首だなんて云ったか。
――エピクテートス『人生談義(上)』鹿野治助訳、岩波文庫、pp.17-18

そうだ。政治はあなたに一定の拘束力をもつ。あなたをある理由から優遇し、また冷遇する。もしかしたらあなたの首を斬り落とすことだってあるかもしれない(いままさにそうしようとしているように)。それらは決してあなたの意のままになることではない。明日あなたが斬首されるという決定をあなたはどうすることもできないだろう。しかし、あなたの「秘密を話さない」という権内の自由は、政治が要求する「秘密を話せ」という権外の力によってはじめて自由になったのではないか。権内のことどもと権外のことどもは決して混ざり合わないが、それらの間のつながり(のなさ)をどう考えるのか、考えないのか。奴隷であり哲学者であったあなたにそれを尋ねたい。

自らの意見や意欲、欲望や忌避がそのまま多くの人びとを拘束することになるような地位に生まれつく人がいる。わたしたちは幸運にも、奴隷の子であったエピクテトスとは反対に絶対的な権力者となったストアの哲学者をも知っている。最盛期のローマ帝国を治めた皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスである。エピクテトス講義ノートを熱心に読んだというマルクスは、エピクテトスから何を学んだのだろうか。そして、自らの意見や意欲、欲望や忌避がそのまま多くの人びとを拘束することになるような自身の境遇、治世、哲学をどう考えたのだろうか。

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