問題にたいする態度

「問題にたいする態度」とでもいうようなことをめぐって自問することがある。

どんな問題でも、ある観点からしたら適切な立てられかたをしておらず、そこからしたらあっさりと相対化できる。実際、自分が採用した観点の十八番であるマジック・ワードを用いれば、それが数年数十年数百年の命脈を保っている問題だとしても、あっさりとケリをつけることができるだろう。

さてここに、ある観点からすれば明らかに誤った前提から出発しているにもかかわらず(あるいはそれゆえに)いつまでたっても議論が絶えない問題があったとする。こうした問題を正当に扱うとはどういうことか。この問題が虚偽の問題であることは、その観点からすれば明白である。だから問題の外側から、問題自体を虚偽のものと断定することはたやすい。しかし問題は、その問題をめぐってどうして議論が絶えないのか、その問題が終息しない必然性があるとするならばそれはなにか、ということだ。問題を相対化するのはたやすいが、このことを明らかにするのはつねに困難である。そしてこの困難に立ち向かわないかぎり、どのような観点を採用しようと、その問題を正当に扱うことはできないように思われる。ここで問題を正当に扱うとは、その問題が演じている役割を額面どおり受けとることであり、その問題がいつまでも終息しないというそのこと自体につきあうことであり、つまりフェアに扱うことだ。

特定の観点からある問題の虚偽性を指摘するだけでは足りない。その場合、自分の観点を無傷に保つことができるかわりに、その問題の虚偽性もまた無傷のまま生き残ることだろう。そうなるとその作業は「提唱」にかぎりなく近づく。提唱の哲学は、そうやっていつまでも自分の観点を提唱しつづけることができるだろう。もちろん提唱はそれ自体わるいことではないが、しかしそれ自体べつによいことでもない。ただ、提唱ではいつまでたっても虚偽の必然と交差することはできない、というだけだ。

ある観点からすればその問題に「虚偽の必然」のようなものが存するとして、その虚偽性とともにその必然性をも額面どおりに評価しようとした場合、それに際して自分が採用していた観点自体もなんらかの影響を受けざるをえないだろう。そのとき、その観点は傷つきあるいは奇妙なねじれをもつことになるだろうが、そこまで進むことができたときにはじめて、ひとはその問題を(少なくとも)扱(うには扱)ったと称してよいのではないだろうか(このことによってその問題がどのような変容をこうむることになるかはまた別問題だが)。

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