トルストイとドストエフスキー

『トルストイとドストエフスキー――最初の神/最後の神』 [来るべき書物](*)

  • 作品と生の対立/作品における生の対立
  • 最初の神/最後の神
  • 懐疑主義のエンジン/相対主義のエンジン
  • 健康の病い/病いの健康
  • 悲劇/喜劇
  • (*)[来るべき書物]=「こんな本が書けたらいいなぁ」というわたくしの空想タイトル(以下同)。

トルストイの大きさ(覚書)

わたくしの関心にとって、トルストイドストエフスキーの魅力は、彼らの「対立」にたいする姿勢にある(それは多面的な彼らの活動のごく一部をなすにすぎないが)。

彼らは、その作品が破綻してしまう地点にまで徹底的に対立を煽り、押し進め、先鋭化させる。そこに綜合や止揚といった解答(という名の妥協)はない。

トルストイを読みながら考えたのは、(まだ考えを明確にできていないので漠然としたいいかたしかできないが)彼のスケールの大きさである。

いま仮に、ふたりを「意識と自然の対立の作家」と規定してみる。そして、その対立のスケールを考えてみる。するとトルストイは、ドストエフスキーとは比較にならないくらいのどでかい対立をはらんでいるように思える。

どういうことか。

ドストエフスキーの作品においては――バフチンも指摘するとおり――たがいに対立しあうさまざまな声が統一されることなく多声的(ポリフォリック)に響いている。

この点、トルストイの作品のなかには、ドストエフスキーの作品が備えているほどのポリフォニーは存在しない。そこで、トルストイには対立は存在しないと速断しそうになる。しかし誤解してはならない。対立の質がちがうのである。

ドストエフスキーの場合、作品のなかにあらわれる意識と自然の対立は、たとえば知的なヨーロッパの意識と素朴なロシアの自然の対立としてあらわれる。しかしトルストイの場合――彼もいちおうそのような構えをとるのだが、その見かけとは異なって――、もはやヨーロッパとロシアの対立などは問題にすらなっていない。

ドストエフスキーの場合、対立はたがいに融合しないさまざまな声として作品のなかで生じる。しかしトルストイの場合、作品自体が作品以外の世界の全体と対立しているのである。くまなく彼の意識に照らされた作品の相手は世界の総体すなわち自然そのものなのであり、この対立は人間が考えうるかぎり最大の、どでかい対立なのである。(*)

  • (*)晩年のトルストイがどうして『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』を――その当否はおくとしても――全否定しなければならなかったのかという問題は、この観点から理解することができるように思われる。意識と自然の対立そのものを作品のなかに表現し具現化させることができたドストエフスキーとちがって、トルストイは自らの作品創作(芸術活動)の意義をドストエフスキーほどには(というより、まるっきり)信じていなかったのである。

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