どんなことでもわかってしまう #1

「最新科学にもとづいた人間論」の意味を考えてみる。典型的なのは脳や遺伝子にかんする科学的知見を利用したもの。

世の中には「車内で平然と化粧する脳」とか「ゲーム脳の恐怖」とか「浮気する遺伝子」とか「鉄人のDNA」とかいうコトバがあふれている。真に受ける人もいるし、インチキだと思う人もいるし、単なるネタとして消費している人もいるだろうけれども、この種の〈発見〉が毎日毎日あきることなく提供されていることは事実だ。

※最初に適切な具体例を立てて、そこから出直す必要あり。

最新科学のお墨つきとともに繰り出されるこれらの人間論への応接法としてまず考えられるのは、当該説を構成している前提や実験や論理に鋭い分析のメスを入れ、その妥当性を吟味することだ。そしてしばしばそのトンデモ性が白日のもとにさらされることになる。乱暴にいえば、よい科学/わるい科学の弁別作業。こうした作業はぜひとも必要なことだと思う。

けれども、ここで考えたいのはちょっと別のことだ。

いま興味があるのは、諸トンデモ説が妥当でないということではなく、逆に、今後こうしたトンデモ説が予言の自己成就的にことごとく〈妥当な〉説になってくるんじゃないかということ、同時にそれらにもとづいたテクノロジーが期待どおりの成果をもたらすことでその価値を保証することになるんじゃないかということ。

※言説とテクノロジーの関係もきちんと考えないと。

「浮気する遺伝子」とか「ゲーム脳の恐怖」の提唱者が批判されるのは、彼/彼女らが誠実な知的探究心の持ち主からつけ込まれるだけの杜撰な方法論と稚拙な論理しかもたないからにすぎないと考えることはできないか。もし、彼/彼女らがすでにもつ「知の条件にたいする徹底した無自覚」と、彼/彼女らがいまだもたない「知の内容にたいする徹底した自覚」がきちんと組み合わされば、〈どんな‐こと〉だって〈正しく‐わかって‐しまう〉ことになるのでは。考えてみたいのは、トンデモ説なんかでは人間はわからないということではなくて、トンデモ説でわかりまくってしまうのではないかということだ。

※これらのトンデモ説がもともと「どんなことでもわかってしまう」構造をしていることは、すでにいろんな人が指摘していると思う。論理の循環とか反証不可能性とか(=「疑似科学」論)。けれども、そうしたよい科学/わるい科学の弁別は、かのハゲ問題(額が徐々に後退していくとして、いったいどこまで額が後退したときに人は「ハゲ」になるのか?)と同じような困難をもたらすようにも思える。ともあれ、いまはそれが問題なのではない。また、科学知の相対化や科学文明批判(往々にして「脳内相対化」「脳内批判」に完結してしまうので気をつけないといけない)もここでの関心ではない。それらの試みにも価値があるとは思うのだけれども、いまはとりあえず措いておく。

もう少し具体的に言うと、竹内久美子的なトンデモ説の〈正しさ〉が今後どんどん〈確証さ〉れ〈価値を高め〉ていくだろうということ。すでに売るほど存在する「女はああだ、男はこうだ」的なものをはじめとして、「ウィンカーなしに車線変更する遺伝子」とか「ギャグがスベりがちな脳」とか「立食パーティーで手持ちぶさたになる遺伝子」とか「映画館でバリバリとポテトチップを食べる脳」とか、この程度の知見ならこれからいやというほど〈発見〉されていくだろうし、程度はさておきそうした行為や性質を〈制御〉することも可能になるんじゃないだろうか。実際、あの『nature』に掲載されるニュースや論文を眺めてみると、そうした精神の精華の一端に触れることができる。とくに脳科学関連のニュースなど、ちまたにあふれるトンデモ説と五十歩百歩のものもあって笑わせてくれる。

※ちなみに、「〈どんな‐こと〉だって〈正しく‐わかって‐しまう〉」とかいう言いかたに冷笑の響きを聴きとる人もいるかもしれない(とくに〈しまう〉の部分)。というか少しはそうなんだけれども、ことさらに冷笑したり怒ったり人類に警告を発したりしたいわけではない。批判すればよいというのともちがう気がする。これは、(ぜんぜん関係ないかもしれないけれども)ブッシュ2を冷笑することは簡単というか、とりあえずそうするほかないようなことを彼はやらかしてくれるし、また批判もできるんだけれども、それだけじゃコトはすまないぞ、でもどう考えたらいいんだろうなというような、そんな気分に幾分か似ているかもしれない(「んなもん笑ってしまえばいいのだガハハハ」というような豪快さんがときどきぼくの背中をバーンと叩いてくれることも救いではあるんだけど)。

※ここで、自らの「知の条件にたいする徹底した無自覚」こそが問題だという論点は重要だし、そうしたトンデモ説による〈解釈学的〉世界が存立する条件そのものを問う〈系譜学的〉探究が必要だということも確かだ。でも、ここで問いたいことはそれとはちょっとちがうように思う。

※「ちがうちがう」と言うだけで「これだ」と言えない。生煮えで痒隔靴掻だけど怒らないでね。

※「ジェンダー化されたセックス」((C)ジュディス・バトラーさん)概念を再度点検することで痒隔靴掻もあっさりと解消する気もするのだが、うまくいかないような気もする。とにかくもういちど読んでみる。

※なんだろう。〈である〉ことと〈である‐ことになっている〉ことのあいだに差異を設けるやりかた、または「である」にカッコをつけて「〈である〉」にしていくやりかた(まさにここでやってるような)は啓蒙的ではあるけれども(そして「カッコつけのプロセス=「である」の系譜学的探究にしか可能性はない」と言われればそうかもしれないとも思うのだけれども)、なんか痛い目にあうんじゃないかという予感がするというかなんというか(こんなときにリチャード・ローティ先生の言葉が身にしみてしまうのだろうか。ところでこれは「社会的なもの(の肥大)/政治的なもの(の盲点化)」(C)北田暁大さん id:gyodaikt の問題と関係あるのかないのか)。

※あれじゃないこれじゃないとないないづくしのロマンティック宙吊り状態も避けたいんだけど。

※じつは問題などなにもないのかもしれない。明日になったら問題はなくなっているのかもしれない。ええ、なにもないところで躓いてるような気もしてるんですよセンパイ。

(つづく)

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