- ルドルフ・カルナップ「言語の論理的分析による形而上学の克服」内田種臣訳、『カルナップ哲学論集』永井成男、内田種臣編訳、紀伊國屋書店、1977
- 作者: ルドルフ・カルナップ,永井成男,内田種臣,内井惣七
- 出版社/メーカー: 紀伊国屋書店
- 発売日: 1977/06
- メディア: 単行本
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某セミネールに使ったレジュメ。有名な論文の、たんなる要約(しかも不完全な)なので、その辺ご注意を。遊ばせておくのもなんなので掲載。
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【当該論文詳細目次】
1.序論
2.単語の意味
3.意味のない形而上学的用語
4.文の意味
5.形而上学的擬似言明
6.全ての形而上学の無意味さ
7.人生に対する態度としての形而上学
1.序論
形而上学の論敵
昔からいた(ギリシアの懐疑論者から19世紀の経験主義者まで)。彼らは形而上学が「偽である」(経験的知識と矛盾する)か、「不確かである」(人間の認識の限界を超越している)と判決を下した。
現代の論敵(論理実証主義)
現代論理学(フレーゲ〜ラッセル)によって、精密な論理分析が可能になった点で旧版とは一味ちがう。
- 肯定的結果=経験科学において、諸概念の形式的‐論理的‐認識論的結合関係を明らかにする
- 否定的結果=形而上学を克服する(「無意味」を宣告する)
「無意味」の意味
- ルーズな意味=主張したり問うたりするのが不毛な場合(例:「電話番号が3で終わる当研究会メンバーの平均体重は45kgである」)←しかしこれは厳密な意味では無意味ではない
- 厳密な意味=単語の列が言明を構成しない場合(例:「無が無化する」)←後述
2.単語の意味
3.意味のない形而上学的用語
形而上学は意味を欠いている
プロトコル命題に還元されえないような用語で言明をおこなうから。
4.文の意味
5.形而上学的擬似言明
6.全ての形而上学の無意味さ
有意味な言明
有意味な言明にはふたつある(大まかにいってカントの分析的判断/総合的判断に対応する)。
- 分析的=トートロジーと矛盾
- 総合的=経験的言明(「カルナップは1891年に生まれた」)
- ※cf.ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
- ※「分析的/総合的」の区別はのちに重大な帰結をもたらす。cf.クワイン「経験主義の二つのドグマ」
それでは哲学にはなにが残るのか?
言明でもないし、理論でもないし、体系でもない。方法だけ。論理分析の方法のみ。
7.人生に対する態度としての形而上学
ではなぜ人は形而上学に魅せられてきたのか?
それは擬似言明であることから「事態の記述」には役立たないが、「人生に対する態度の表現」には役立つから。たぶん神学の代用物として発達したのだろう。
- ※この「たぶん」がおもしろい。論文(邦訳)30頁12行目と19行目。
形而上学はなぜ克服されねばならないか
- 形而上学は「おとぎ話」であるから克服されなければならないのではない。
⇒それは「おとぎ話」ではない。「おとぎ話」は有意味である。
- 形而上学は無意味であるから克服されなければならないのではない。
⇒たしかにそれは無意味であるが、「人生に対する態度の表現」としてはある程度役立ってきた。
- 形而上学がなぜ克服されなければならないものであるかは、結局のところ、それが「やりたいことを不適切な仕方でやっている」からであり、また「実際にはやっていないことを、さもやっているかのように僭称する」からである。
⇒形而上学は「人生に対する態度の表現」にほかならないのに、その理論的な言明スタイルをとおして「事態の記述」を装う。しかし、「芸術」にはそうした「自己欺瞞」がない。「人生に対する態度の表現」には芸術こそが適している。
形而上学者とは何者か?
ズバリ、「音楽の才能のない音楽家」のようなものである。
終わり
「カルナップのデーモン」――昂ぶりと切なさ。
- ※論理実証主義のプログラムは「哲学にできること/やるべきこと/やってはいけないこと」(©A氏)をハッキリさせると宣言したが、そうは問屋が卸さなかった。かといって、そのプログラムが実現されなかったからといって、それでとりたてて満足してよいというわけでもない。(ソヴィエト社会主義共和国連邦のプログラムは「理想の世界」の構築を宣言したが、そうは問屋が卸さなかった。かといって、そのプログラムが実現されなかったといって、それでとりたてて満足してよいというわけでもない。)
- ※論理実証主義の「崩壊」は、「敵」からの攻撃によってなされたのではない。それは「経験主義を、もしくは少なくともある形での経験主義を、みずから奉ずる哲学者たち」(ジャック・ブーヴレス)による「批判的継承」によってなされた。
- ※カルナップからクワイン、そしてデイヴィドソンへといたる師匠/弟子たちによる批判的継承の途でなされた「論理実証主義の崩壊(プラグマティズム化)」を追っていくことで、徒手空拳ながらも「生まれながらの形而上学者」(Natural Born Metaphysician)たるわたしたちの生と思考の実相をあらわすることができるかもしれない(大先生風に)。
◇哲劇メモ > [メモ]
http://d.hatena.ne.jp/clinamen/searchdiary?word=%2a%5b%a5%e1%a5%e2%5d
◇哲劇メモ > [哲学][メモ] カルナップほか
http://d.hatena.ne.jp/clinamen/20050715/p4
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