※ザ・インタビューズより転載。
朝日出版社第二編集部ブログにて連載中の『理不尽な進化』は、進化論を題材にしたエッセイです。
昔から進化論/進化学にかんする読み物が好きでたくさんの刺激を受けてきましたが、下手の横好きを通していくうちに、われわれ(わたしも含めて人類のほぼ全員)は自分たちが思っているほどには進化論(ダーウィニズム)を理解していないのではないかという疑念を抱くようになりました。ダーウィニズムの教説は一見あたりまえのように思えるけれども、そこにはわれわれの理解を阻む一種独特の難解さがあるのではないか。それがわれわれを思わぬ誤解へと導き、また愛憎にまみれた激しい論争をも引き起こすことになるのではないか。その難解さのツボを探ってみたい、こんな風に考えています。
その意味でこのエッセイは、ダーウィニズムを解説するものではないし、ましてやダーウィニズムに反対したり代替案を提出したりするものでもありません。わたしにそんなことができるわけはありません。これは、われわれが進化論(ダーウィニズム)に触れる際に出会うであろう躓きの石あるいは落とし穴(概念的混乱)を精査することで、なんとか「ダーウィニズムを真面目に受け取る」ための舞台を整えようとする試みにすぎません。目標は登頂ではなく、あくまで標高ゼロメートル地点でありスタートラインです(いま、「〜にすぎません」などと申しましたが、アームチェア派にとって、これほど意義深い仕事もなかろうかと思います)。
優れたダーウィニズム擁護の書『ダーウィンの危険な思想』を著した哲学者ダニエル・デネットは、ダーウィニズムを万能酸にたとえました。しかし、彼がそのような本を書かなければならなかった理由のひとつは、たしかにダーウィニズムは万能酸であるが、誤解や反感に阻まれて、その力能を十分に発揮していないように思えることでした(彼が言うとおりその思想が「危険」である以上は当然のことですが)。なぜダーウィニズムは勘違いによって愛され、また勘違いによって憎まれるのか、その秘密を解読する知的エンターテインメントに仕上がればと思っています。
以上、自分にとっては長いこと大事なテーマだったのですが、同じように大事だと思ってくれる人がいるかどうか……。詳しくは連載中の拙稿をご覧いただけたらと思います。
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また、『哲学の門前』(仮)という書物を準備中です。これは、ジグザグに動きながら件の標高ゼロメートル地点へといたろうとする概念的冒険(その冒険を仮に「哲学」と名づけておきましょうか)の魅力を伝える、ジャン・アメリー風ロマン・エセーです。←この紹介文から香ばしくたちのぼる胡散臭さからおおよそ見当がつくように、まだあまり内容が固まっておりません。
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最後に卓球のこと。物書き関係の知人に卓球の話をすると「聞いてないよ」とばかり場がシラケてしまうことが多いのですが、わたしの生活においては大きなウェイトを占める活動なので、少しだけ報告させてください。
最初は人から頼まれて嫌々ながら、最近では自ら喜んで従事するようになったのが、初級者から中級者を対象とした卓球の指導です(上級レヴェルともなると少なくとも技術的にはわたしから教わることなど何もありません)。
いま教えている生徒さんはおもに高齢者と中高生で、週2〜3回は出かけていって個人指導をしています。これがとても勉強になり(もちろん生徒さんにとっての勉強になることが第一ですが)、得がたい経験をさせてもらっている実感があります。
同じひとつの単純な技術をとりあげてみても、それを習得するにいたる道筋は人によってさまざまなわけで(みんな身体的精神的文化的社会的等々の来歴が異なるのであたりまえですが)、指導の際には頭をフル回転させて考えられる可能性を数え上げながら試行錯誤しなければなりません。しかも学校などでは同時に数十人の生徒たちを相手にしなければならず、そうとう工夫しないとわけがわからなくなります。どんな分野でも同じだと思いますが、その過程で思わぬ発見や驚きがあり、そんなことがあるたびに、こちらのほうこそお金を払うべきなんじゃないかと思ったりもします(もちろん払いませんが)。
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ご質問に答えるのが遅くなってしまい、完全に時機を逸した感もありますが、ご注文は以上でよろしかったでしょうか。
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