「形而上学入門」

アンリ・ベルクソン形而上学入門」坂田徳男訳、『世界の名著64 ベルクソン中央公論社、1979年

世界の名著 (64) ベルクソン 中公バックス

世界の名著 (64) ベルクソン 中公バックス

ただの要約ノート。

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※本論文は最初『形而上学倫理学評論(Revue de Métaphysique et de Morale)』(1903/01)に発表され、その後『思想と動くもの(La Pensée et le Mouvant)』(1934)に収録された。邦訳には本書のほか、矢内原伊作訳(『ベルクソン全集第7巻』所収、白水社)、河野与一訳(『思想と動くもの』所収、岩波文庫青645-4、岩波文庫)がある。

分析と直観

ある対象を認識するのには、以下のふたつの方法がある。

  1. 対象を外側から眺める方法、すなわち分析。
  2. 対象を内側から捉える方法、すなわち直観。
  • [例1] あなたが腕を上げる。あなたはその運動について内部からある単純な運動知覚をもつ(直観)だろう。しかし外部からそれを眺めている私にとって、あなたの腕はある二点間を通過する運動に見える。私はこの二点間の点を数え上げてあなたの腕の運動を精密に記述する(分析)だろうが、この二点間がいくらでも分割できる以上、それには限りがないだろう。

上のことから、絶対は直観においてでしか与えられないことがわかる。反対に絶対でない他のものは、ことごとく分析の範囲に入る。直観とは対象そのものにおいて独自的で、言葉で表現できないものと合一するために共感する方法である。それは視点というものを考えず、記号に頼らない。だから直観は絶対に到達する認識である。一方、分析とは対象を既知の要素に還元する、つまりひとつの事物を他の事物の言葉で表現する方法である。それはわれわれがとる視点と表現に用いる記号とに依存する。だから分析は相対のうちにとどまる認識である。

そうであれば、実証的科学の機能は分析にあり、形而上学の機能は直観にあるということがわかる。形而上学はしたがって、記号なしにすまそうとする科学なのである。

持続と意識

分析によるのではなく、直観によって私たちのすべてが捉えることのできる実在が少なくともひとつ存在する。それは時間のうちを流れ、持続している私たちの自我である。この自我に内省の目を向け、もっとも恒常的に私自身の自我であるものを探し出すならば、それはひとつの連続した流動であろう。この流動は状態と状態との継起であり、それらの状態は互いに緊密に有機的につながっている。それは一貫した内的な生というべきものであり、過去はその途上で現在を拾い上げてはたえず肥大化していく。それゆえ意識とは記憶を意味している。この意識=記憶が、私たちが持続と呼ぶところのものである。

さて、この持続は何によってあらわされるだろうか。何らかの心像によってだろうか。否。どんな心像でも、純粋な持続をあらわすには不完全である。私たちの持続は、ある面では前進する統一体に似ていながら他の面では拡がっていく状態に多様性に似ているから、心像をもってしてはその両方を同時にあらわすことができない。この二面をひとつにしているのが内的生命であって、そこでは性質の多様性、進歩の連続性、方向の統一性がひとつになっていなければならない。概念ではどうか。なおさら否である。概念は抽象化すると同時に一般化するから、対象をまったく独自な相のもとに捉えなければならない形而上学的探究にとっては役に立たない。

以上見てきたように、純粋な持続は心像によっても概念によってもあらわすことができない。それはただ直観によってのみ提示されるということができる。形而上学は既成の概念の束縛を脱して直観にまで達しなければならない。あるいは、習慣上使われているものとはまったく違った概念を、いつでも直観の漂う形態にあわせて形どられるような新たな概念を創造しなければならない。しかし形而上学が直観を要求し、かつ直観を獲得することができるとしても、科学が無価値に転落するわけではない。科学は分析という手法を用いることによって形而上学とはまったく違った対象の把握が可能だからである。結局問題であったのは形而上学と科学との対立などではなく、直観の機能と分析の機能とを混同することからくる混乱であったのである。この混乱が諸学派の間に果てもない論争(観念のゲーム)を呼びおこすのであり、直観による形而上学はこのような論争とはきっぱりと手を切るのである。

構成的部分と部分的表現

ここで、「構成的部分」と「部分的表現」とがまったく違うということを確認しておかなければならない。構成的部分とは対象への直観から導き出された諸要素であるといえる。それらの要素は他の要素にたいして、また対象全体にたいして不可分の有機的連関をもつ。一方、部分的表現とは対象への直観なしに枚挙された諸要素である。それらはお互いの連関なしに浮遊する記号の断片にすぎない。

  • [例2] 私の知らない一篇の詩を構成している文字群がバラバラに分解され混ぜ合わされて、私に提示されたとする。この状態から元の詩を私が構成しなおすことはほぼ不可能である。なぜならこれらの文字群は単なる部分的表現だからである。逆に私が当の詩を知っていたとしたら、ひとつひとつの文字をしかるべき場所に置き、元の詩を再構成することができるだろう。なぜならこれらの文字群は私にとって一篇の詩を有機的に構成する構成的部分であるからである。ここからわかることは、直観から分析へ行くことはできても、分析から直観へ達することはできないということである。

だから、直観を欠いたまま何の連関も見出されない諸要素を並べかえて事物を再構成しようとすることは、はなはだしい不条理を含むといえる。

経験主義と理性主義

理性主義も経験主義も誤っている。なぜなら、両者とも部分的記号(部分的表現)と真実の部分(構成的部分)とを取り違え、分析の観点と直観の観点を混同しているからである。つまり科学と形而上学を混同しているのである。

経験主義は直観を欲していながらその実それを分析のうちに求めている。分析によって得られた部分的記号をいくら増やして並置しても自我そのものを再構成することはできない。よって経験主義は多数の心理状態以外のなにものも存在しないと断言せざるを得ず、結局は自我の統一性の否定に終わる。

理性主義についても同様の混同がその出発点となっている。部分的記号をいくら増やして並置しても自我そのものを再構成することはできない。経験主義と違って理性主義はあくまで自我の統一性を主張するが、もともと統一性のないところに統一性を設定しなければならないために、結局その統一性はどうにでも設定可能となってしまう。

よって同じ錯誤を共有する経験主義と理性主義の唯一の違いは以下の点に存する。経験主義における自我がゼロへと近迫していくのにたいし、理性主義はむしろ無限に近づこうとするということである。

それらのやり方とは反対に、(部分的記号からではなく)できるだけ生命そのものへ深くさぐり入り、一種の精神的聴診によって魂の脈動を触知しようとするものが真の経験主義であり、そのような真の経験主義こそが真の形而上学なのである。

重要なことは、(人格は一であるとか多であるといった抽象的な規定などではなく)人格の多的一とは実際はどのような一であり、どのような多であり、また抽象的な一と多のいずれにも優越したどのような実在であるかを、精密に知ることである。哲学は自我による自我の単純な直観を取り戻したときに、はじめてそのことを知るだろう。

ところで、概念は一般に対偶の形をなしてふたつの反対をあらわす。これは経験主義と理性主義の対立についてもいえる。しかし直観によって捉えられた対象から出発するならば、容易にふたつの反対概念へ移ることができる。定立と反定立がともに実在からあらわれることが理解されると同時に、それらがどのように対立し、どのように和解するかということも同時に把握される。

この仕事(直観)を達成するには、通常の知性の作業とは逆の手続きをとらなければならない。思考とは普通は概念から事物へ移ることだからである。直観が行うのはそれとは逆の作業、つまり事物から概念へと移ることである。

実在する持続

分析が不動のものをしか取り扱わないのにたいして、直観は動性へ、いいかえると持続へ入っていくことを意味する。過去を現在へ延ばし続ける記憶の連続的な生が持続だからである。

とはいえ、分析が不要かといえばそうではない。対象をどう扱い得るかを知るため、対象がどこにあるかをその時々に問うような実用的知識にとっては、分析ほど有用な方法はありえない。しかし、分析によって事物の内実本性へ透入しようとするのは、実在にたいして不動な観点を得るためにつくられた方法を、実在の動性そのものに適用することでしかない。およそ形而上学が可能であるとすれば、それは概念から実在へ移るのではなくて、実在から概念へと到達する努力なのである。

直観の努力によって持続の具体的な流れに身を置いてみよう。持続を下方へ追求した場合、つまり希薄で分散した持続へ至りついた場合に見出されるのは純粋な物質性であり、物質性の定義となる純粋な反復である。反対に持続を上方へ追求した場合、つまり緊張と収縮と強度の増した持続へ至りついた場合に見出されるのは永遠、それも概念的な死せる永遠ではなく、生ける永遠であろう。このようなふたつの極端を限界とした中間を直観は動いているのであり、その運動こそまさしく形而上学そのものなのである。

実在と動性

ここで、直観が拠っている諸原理を式述してみよう。

1.外的ではあるが、われわれの精神へ直接に与えられた実在が存在する。

2.この実在とは動性である。実在するものは既成の事物ではなくて生成しつつある事物であり、自己を維持する状態ではなくて変化しつつある状態である。

3.われわれの知性は日常においては、不動なものから出発して運動を不動の函数としてしか理解し表現しない、実用的な知といえる。

4.形而上学に内在する混乱の原因は、実用的知を実在についての関心を離れた認識に適用することにある。

いわゆる認識の相対性

5.われわれの認識の相対性について与えられてきた証明には、ひとつの謬見が染みついている。すなわちいっさいの認識は固定した概念によって流動する実在をつかまなくてはならない、という謬見である。この謬見は、その攻撃目標たる独断主義の謬見と異なるものではない。

6.しかしわれわれはそれと反対の方法に従うことができる。つまり直観によって実在を把握することができる。したがって哲学するということは、思考作業の習慣的方向を逆にすることである。

7.この倒逆はまた方法的に実行されたためしがない。だが、微積分法はまさしくその倒逆から生まれたものであった。形而上学の目的のひとつは、性質上の微分積分法を行うことだということができる。

8.既成の概念を用いて固定したものから動くものへ行こうとする記号的認識が相対的なのであって、動きつつあるもののうつへ入り込み、事物の生命そのものをわがものとする直観的認識はけっして相対的ではない。そのような直観は絶対的なものに達するのである。この直観的な哲学こそ、科学と形而上学との合一を実現するだろう。

9.近代科学は、ガリレオによって動性が独立の実在として確立した日からはじまった。しかしやがて科学者たちは実証的科学において、直接な直観の与件と分析の作業との区別をすっかり抹殺し去ってしまう。認識の相対性を主張する理説への途は、このようにして用意されたのである。

近代科学と形而上学

しかし、形而上学の働きも同じ目的へ向かって進んできた。そこには、(もし容易な理解性へのある安心をイデア、生命のある不安を霊魂と呼ぶとしたら)霊魂をイデアの上位に置くという方向が認められるのだが、近代の形而上学は、記号と絶縁することが自らの存在理由であることを忘れ去った。カントは科学と形而上学とを知的直観へとつなぐ紐帯を見失ったため、科学が相対的であること、形而上学人為的(単なる幻想)であるということになった。カントが与えた打撃から、科学も形而上学も今なお昏迷から立ち直っていない。われわれは科学を相対的認識とみなし、形而上学を空虚な思想とみなす諦観に安住したがるのである。

  • [例3] 『純粋理性批判』は、イデアを事物としてではなく関係としてみたプラトン主義であり、このようなイデアが思考と自然との共通の根底であることを確立したものである。しかし一方でそれは、われわれの思考はプラトン流に考えるほかに能力がないこと、いいかえると一切の可能的経験を既成の鋳型へ注入する以外に何の能力もないという要請に基づいている。

しかし、直観の努力によって具体的実在の内部へ自己を置くことこそ哲学的思考なのである。カントは外部からその実在を眺めているために、定立と反定立という和解しえない対立へと形而上学を導いた。二律背反の定立と反定立を同時に同一の地盤のうえに承認する方法がないのであれば、形而上学とはカントのいうとおりのものであろう。しかし、二律背反の定立と反定立を同時に同一の地盤のうえに承認するその方法こそが直観であり、直観を根底にもった学説は、容易にカントの批判を脱するのである。定説へと凝固した死んだ形而上学をかえりみずに、哲学者の胸に生きている形而上学だけを考えるなら、形而上学のすべてはそのような学説なのである。

結語

この直観の能力は何ら神秘的なものではないということに注意しよう。文学上の創作における衝動力はある種の運動への励ましであり、無限に拡大しうるものでありながら単純そのものである。形而上学的直観もそうした種類のものだといえる。ちょうど運動の衝動力が動体の通過した道とは別物であるように、形而上学的直観も実質的知識の要約や綜合とは異なったものである。この意味で、形而上学は経験の一般化とは何の関係もない。しかも形而上学は成全的経験(experience integrale)と定義されてもよいだろう。

思想と動くもの (岩波文庫)

思想と動くもの (岩波文庫)

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