ふたつの種族

『ふたつの種族――レーヴィとフランクル』 [来るべき書物]

  • 善意の人間とそうでない人間――フランクル
  • 溺れるものと救われるもの――レーヴィ

プリーモ・レーヴィヴィクトール・フランクルによる、ふたつの「ふたつの種族」論。

すなわちある人間が収容所の看視兵に属しているからといって、また反対に囚人だからといって、その人間に関しては何も言われないということである。人間の善意を人はあらゆるグループの人間において発見し得るのである。従って人間の善意は全部からみれば罪の重いグループにも見出されるのである。その境界は入りまじっているのであり、従って一方が天使で他方は悪魔であると説明するようなことはできないのである。それどころか看視兵として囚人に対して人間的であろうとして何らかの人格的道徳的な行為もあったのであり、他方では、彼自身の苦しみの仲間に不正を働くある囚人の忌まわしい悪意もあったのである。かような悪い性格の人間は収容所の他の囚人を甚だ苦しめたことは明らかである。他方看視兵が示したごく僅かな人間性に対して、囚人が深い感動をもって応えることもあったのである。たとえば私はある日一人の労働監督がそっとパンの小片を私にくれたことを思い出すのである……私は彼がそのパンを彼の朝食の配給から倹約してとっておいてくれたことを知っていた……そして私を当時文字どおり涙が出るほど感動させたものは物質的なものとしてのこの一片のパンではなく、彼が私に与えた人間的なあるものであり、それに伴う人間的な言葉、人間的なまなざしであったのを思い出すのである。

これらすべてのことから、われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。専ら前者だけ、あるいは専ら後者だけからなるグループというのは存しないのである。この意味で如何なるグループも「純血」ではない……だから看視兵の中には若干の善意の人間もいたのである。

強制収容所の生活は疑いもなく人間の奥底に一つの深淵をひらかしめたのであった。この深みにおいてもなお人間的なものを、すなわちあるがままの人間的なもの、善と悪の合金としての人間的なもの、をみることができたのは少しも不思議ではない。あらゆる人間存在を通じ善と悪とを分つ亀裂は人間の最も深い所まで達し、収容所が示すこの深淵の中にも見ることができたのである。

――ヴィクトール・E・フランクル夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』霜山徳爾訳、みすず書房、pp.195-196

人間は根本的には野獣で、利己的で、分別がないものだ、それは文明という上部構造がなくなればはっきりする、そして「囚人」とは禁制を解かれた人間にすぎない、という考え方がある。だが私たちには、こうした一番単純で明快な考え方が信じられないのだ。むしろ人間が野獣化することについては、窮乏と肉体的不自由に責めたてられたら、人間の習慣や社交本能はほとんど沈黙してしまう、という結論しか引き出せないと考えている。

それよりも注目に値するのは、人間には明らかに、溺れるものと助かるものという二種類があるという事実のほうだ。これ以外の、善人と悪人、利口ものとばか、勇ましいものといくじなし、幸運なものと不幸なものといった対立要素はずっとあいまいで、もって生まれたものとは思えない。どっちつかずの中間段階が多すぎて、しかもお互いにからみあっているからだ。

――プリーモ・レーヴィアウシュヴィッツは終わらない――あるイタリア人生存者の考察』竹山博英訳、朝日選書、p.104

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