犬描写、第三の大家

先日、わたしは次のような記事を書いた。

  • ※敬愛する大西巨人氏のひそみにならい(いつもどおり内容には大きな落差があるが、形式だけを見習って)、以下に長々と引用する。

哲劇メモ > [文学][マ][メモ] みそつかす(2005年7月19日)

腹が立ってしかたがないので(上記エントリー参照)、気分を鎮めようと幸田文を読んでみる(仕事は?)。書棚からとりだしたのは、ご存じ『みそっかす』。

みそっかす (岩波文庫 緑 104-1)

みそっかす (岩波文庫 緑 104-1)

そのままお気に入りの掌篇、「なのはな」に直行する。すばらしい、としか言うことが思いつかない。

文は、障子の向こうで両親が自分を「よそへやる」のを相談しているのを聞く。文はそっと外に出る。そして夕暮れどきの菜の花畑にうずくまる。

あせっても動けなかった。もう花も顔を近づけなくては見えなくなっていた。いきなり、つめたい濡れたものが頬にくっついた。ぎょっとすると犬の鼻だった。犬はすわっていて私にからだの重みを押しつけてよこし、やたらと涙を舐めた。犬とはちょうど同じすわり背だった。たがいにもたれ合っていると心からかわいかった。そこへすわって縺れた。(p.104)

文さん、すごいよ。これに匹敵する犬描写をなしえたのは、かのロシアの文豪レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ翁だけだ。

家で家政婦の役目を勤めている年とったばあやのアガーフィヤの部屋の窓から漏れる光が、屋敷の前にある小さな広場の雪にさしていた。老婆はまだ寝ていなかったのである。アガーフィヤに起されたクジマーが、寝ぼけた眼ではだしのまま、入口の階段へ駆けだして来た。雌の猟犬のラスカは、クジマーの足をはらわんばかりの勢いで、同じように飛びだして来て、彼のひざに身をすりよせ、後足で立っては、主人の胸に前足をかけようとしたが、そこまではしなかった。(トルストイアンナ・カレーニナ(上)』木村浩訳、1972、pp.193-194)

主人リョービン帰宅の場面。犬(猟犬のラスカ)が「主人に飛びついた」とか「主人の胸に前足をかけた」とかいうことなら誰でも書ける。しかし、「前足をかけようとしたが、そこまではしなかった」とは誰にも書けまい。

 *-*

時代は下り21世紀。いまでも、犬の鼻はつめたい。そしてお尻でからだの重みを押しつけてよこす。

 *-*

先日、この拙記事を読んだ友人から激しい叱責を受けた。「吉川さん、なんでアレを忘れてるんですか!? アレのおもしろさを教えてくれたのはあなたじゃないですか!」というわけだ。

そうだった。たしかにわたしは、犬描写にかんする第三の大家を忘れていた。文学者ではない。哲学者である。哲学者の名は大森荘蔵(1921-1997)。その犬描写を紹介することで、友人と大森への約束を果たそう。

彼が「いわゆる学術的なスタイル」で書いた例外的な作品のひとつに、『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫)がある。

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)

知の構築とその呪縛 (ちくま学芸文庫)

同書の中程において対象の「細密描写」の難しさを指摘するさい、彼は以下のように唐突に犬描写を展開しはじめるのである。

細密描写の対象

前にも述べたように、描写の細密化とは何よりもその時間空間的細密化、時間空間的な細部描写である。つまり、事物の空間的位置や形を精しく測り、その事物の部分部分を細かに分別し、それらの時間的変化を時々刻々描写してゆくことである。しかし、これは実に大変な仕事である。

一匹の犬があくびをした。この数秒間の出来事を、今いった時間空間的に細密描写することを考えていただきたい。犬の形だけとっても、その姿勢の細部、例えば後脚のふんばり方、尻尾のたれ方、耳のたれ方、鼻孔のふくらみ、しかもその時間的変化、それらを細かに描写するのである。それにもちろん、全身にわたって微妙に変わる毛並みとその色調、そのかすかな息遣いとあの奇妙なあくびの音、それらも描写しなければならない。誰が考えてもこれらの細密描写をミリ単位、秒単位で行うことはまず不可能であろう(これに反して、それらを映画またはビデオで「記録」することは何でもない)。この犬のように複雑微妙な毛皮をまとい、それがくねくねしなやかに動くような物の細密描写はまず不可能なのである。細密描写が比較的に容易なのは、複雑な部分をもたない(できれば斉一な)、そして位置を変えても形をほぽ変えない(あるいは機械のように、形を変えない部分から組み立てられている)、そういう比較的に組成が単純で、固形的部分からできている物である。あるいは、複雑な部分の描写は無視して特定の着目した点(例えば重心の動きとか、全体のエネルギーの出入りとか)だけを細密に描写するときである。例えば、遠い星を点としてその動きのみを細密に描写し、太陽や月や地球を完全な球として日蝕や月蝕を描写する。また、均一な空気や水から、これまた均一なガラスでできたレンズへの入射光の屈折、均一に近い材料でできた歯車のかみ合わせ運動、発射された砲弾の重心の運動、これらを描写する、こういった場合である。(pp.125-126/強調は引用者)

「あの奇妙なあくびの音」「複雑微妙な毛皮」「くねくねしなやかに動くような物」……まったく非凡な「細密描写」といわなければならない。

追記

SugarCheap氏のブログでは、大森による秀逸な「ロボットの気持ちと申し分の代弁」が紹介されている。たしかに、彼のロボット描写(正確にはロボットの「内面」描写)は(犬描写などより)高名であろう。

◇歩行と思索 > 犬描写とロボットの気もち
http://diary.tea-nifty.com/blog/2005/07/post_ef04.html

◇哲学の劇場 > 作家の肖像 > 大森荘蔵
http://www.logico-philosophicus.net/profile/OmoriShozo.htm

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