小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』

脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)

脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)

要約

労作。「脳死」なる死の基準の是非、「脳死・臓器移植」の問題性を検証する。実例をもとに小松氏が明らかに(しようと)するのは以下の3点。

  • 自明とされる脳死という基準は妥当性をもたない
  • 称揚される臓器移植の実態はめちゃくちゃである
  • 臓器移植法は人体の資源化・商品化の布石である

論点

身体/脳/心

脳死をめぐる議論は身体/脳の関係に集中している。

脳/心の関係、身体/心の関係(心身問題/心脳問題)は、この議論でどのような役割を演じることができるか。できないとしたらそれはなぜか。

「意識」の問題

小松氏は、脳死者になんらかの「意識」がある可能性を示唆している。

ex. 現状の脳波測定では脳深部の活動はわからない、臓器摘出の執刀時にドナーの大半が急速で激しい血圧上昇と頻脈を示す、カテコラミンという神経伝達物質の値が臓器摘出時に増加することが痛み刺激になっている、etc.

看護婦たちは本当に心底動転していますよ。[脳死者に]メスを入れた途端、脈拍と血圧が急上昇するんですから。そしてそのまま何もしなければ、患者は動き出し、のたうち回りはじめます。摘出手術どころじゃないんです。ですから、移植医は私たち麻酔医に決まってこう言います。ドナー患者に麻酔をかけてくれ、と。(フィリップ・キープ、英ノーフォークノリッジ病院・顧問麻酔医)(同書、pp.89-90)

考察の方向はふたつ。

まず、(われわれが「意識の有無」を重要視していることを前提としたうえで)身体/脳と意識の関係をもっと掘り下げて検証する(身体/脳の様態と意識の様態にかんする科学的な対応づけ)。

同時に、われわれがなぜ「意識の有無」を重要視するのかということ自体をも考察する。「脳死=死」への反対者は脳死者に意識が残存している可能性を示唆する(だから「脳死=死」は認められないと主張する)が、肯定論者には「脳死=精神の死=死」の俗信がある。この点で否定論者と肯定論者は通底している。

思うに、われわれは非常に貧困な(あるいは固定的な)意識=精神観しかもっておらず(もしかしたらそうならざるをえないかもしれないが、それはまだわからない)、しかも否定論者も肯定論者もそれにすがりついている。上記の考察をつうじて、意識=精神を位置づけなおす必要性が生じるだろう(cf.アントニオ・ダマシオ)。

それが脳死・臓器移植の問題にどのように寄与するかはわからないが。

「自己決定」の手前で

脳死・臓器移植の問題が議論されるときにはかならず「自己決定(権)」の問題が争点になる。しかし本書の問題提起は、自己決定(権)なるものをどう考えていようとも(著者と同じ見解に立っていなくとも)検討に値する内容をもっている。自己決定権を云々する手前の、脳死判定基準の妥当性自体がターゲットになっているわけだから。

現行の脳死判定基準が不完全なものであるということは多くの識者が認めるところである。ここから自己決定(権)の手前でもすでに3つの立場がありうる(後述の「正当化された殺人」を考慮しない場合)。

  • 脳死=死」の考えかたを認め、現行の脳死判定基準も認める
  • 脳死=死」の考えかたを認めるが、現行の脳死判定基準は認めない(今後の知見や基準内容次第では認める用意はある)
  • 脳死=死」の考えかた自体を認めない

ところで、論理的には(現行のものであれ、きたるべき「改良版」であれ)「脳死=死」を否定しながらなおかつ自己決定論者であることは可能である。そういう人があまりいないようにみえるのは残念なことだ(少なくともぼくは知らない)。

自己決定論者(リベラリスト?)にとっては、「脳死=死」の妥当性にたいする判断と自己決定権の確保はいちおう切り離して考えることができる(切り離せないという立場もありうる。たとえば自己決定できない主体=脳死者に死を与えるのは当然だという立場。しかし自己決定論者にとってそれはかならずしも自明ではない。自己決定権はある主体が実際に自己決定できるかどうかということにはかかわりなく存立すると考える立場もありうる)。

他方で、「脳死=死」を肯定しつつなおかつ自己決定批判論者であることは困難かもしれない。自己決定批判論者(コミュニタリアン?)にとっては、それがどのような死であれ死というものは「個人」(リベラリズム的な自己決定する主体)に属するべきものではないのだから。

※ところで、同書によれば、「脳死」という言葉についてだけでも「脳死の定義」 「脳死判定基準」「脳死判定基準によって判定された脳死」という3つのレヴェルがあるという。この論点はその辺をきちんと整理したうえで再提出する必要がある。

身体と精神

脳死問題にかんして、プロフェッショナル(専門家)とアマチュア(非専門家)のあいだに興味深い癒合=乖離がみられる。

まず、プロのあいだでの脳死論議は一貫して「身体の有機的統合性」に焦点を当ててきた。死を「身体の有機的統合性の喪失」と定義したうえで、脳死によってそれが必然となるのかどうかという議論だ。イエスと答えれば「脳死=死」肯定論者になり、ノーと答えれば否定論者になる。つまりプロは「身体の有機的統合性の喪失」という観点から脳死を考えている。この流れは死の判定技術を医学が提供していることを考えれば自然でもある。
しかしアマチュア(非専門家=われわれ)は、身体の有機的統合性ではなく「精神の死」という観点から脳死をイメージしているように思える。俗にいう「植物人間」(大脳、小脳の機能停止)と脳死者(大脳、小脳、脳幹の機能停止)のちがいをアマのほとんどが述べることができないということを考えても、そう考えるのが妥当ではないかと思う(脳幹が働いているか否かはプロにとっては重大なちがいである)。

一方でプロは身体(の有機的統合性の喪失)のみを問題としてきたが、他方でアマは精神(の死)のみを問題としている。ここでプロとアマの多数派(=賛成論者)は、癒合しつつ乖離――「脳死=死」という結論において癒合し、その論拠において一方は身体/他方は精神というかたちで乖離――している。

※日本では、脳死を死の基準とすることに50%が賛成、30%が反対しているといわれる。(要再調査)

これはどういうことか?(単なる啓蒙の不徹底なのか/そうではないのか、あるいは「単なる」とは異なる啓蒙の不徹底なのか)

※以上の論点にかんしては(とくにアマ分析)それほど自信はない。要検討。

トゥルオグとゲイリン――正当化された殺人と人体の資源化

cf.ロバート・トゥルオグ「脳死を捨て去るべき時ではないか」(1997)
ウィラード・ゲイリン「死者からの収穫」(1981)

トゥルオグ氏は小松氏と同様に脳死を死の基準とすることに反対する。しかしそこから導き出される見解は小松氏と正反対である。

小松氏は脳死判定基準を否定することで脳死・臓器移植に反対するのだが、トゥルオグ氏は逆に脳死判定基準を否定することでより効率的な臓器移植を提唱する。

以下、トゥルオグ氏の見解のもっともラディカルな部分をぼくなりにパラフレーズしてみる。

  1. 臓器移植には、「それは死者からなされねばならない」という前提がある(臓器移植を「殺人」にしないため)
  2. そこで、臓器移植を可能にするために死の基準を心臓死から脳死に変更しようという動きが生じる(同時に抵抗も生じる)
  3. しかし、死の基準に拘泥することは百害あって一利なしである。まず、脳死判定基準そのものが疑わしい。また、死の基準の変更は人びとの死生観や文化や宗教との軋轢を生まざるをえない
  4. それならばいっそのこと、そもそもの前提にあった「臓器移植は死者からなされねばならない」という前提を捨てたらどうか。つまり、臓器移植のための臓器摘出を「正当化された殺人」という形式で法的に認めてしまうのが最良ではないか
  5. そうすることで、なにかと問題の多い死の基準変更を避けながら(従来どおりの心臓死のままで)、臓器移植を合法的に行うことができる

このトゥルオグ氏の見解は、1981年にウィラード・ゲイリン氏が提唱した人体の資源化・商品化を可能にする条件を明確にしたものだととらえることができる(実際の影響関係は要調査)。

ゲイリン氏は以下のような脳死者の利用法を提唱している。

  • 医学生や研修医の診療の実習用、手術の練習用
  • 新薬の効果や副作用を試す素材
  • 癌を発生させたりウイルスを感染させて治療する実験台
  • 血液成分や移植のための臓器を保存する貯蔵庫
  • 血液や骨髄や皮膚を恒常的に再生する収穫源
  • ホルモンや抗体を製造する工場

※ちなみに日本では竹内一夫杏林大学名誉教授が「脳死者の代理 母利用」(脳死者には出産が可能)を提唱している(同書より)。

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