読書と鼻汁

インフルエンザで倒れ一週間を棒に振ってしまった。

眠れないまま布団の中で唸っているのもなかなかつらい。こうしてはいられない。苦しみながらもなにか本を読もうと手にとったのが、(哲劇では)おなじみのエピクテトス『人生談義』(岩波文庫)。すると、

だがもし読書力を養うために張り切り、そのために骨折り、そのため旅したのであるならば、私はその人に対して、即刻家に帰るように、そして家の事をゆるがせにしないようにいおう。というのは彼の旅行の目的は、何でもないからだ。しかし旅行の本当の目的は、自分の生から、苦悩とか、悲痛とか、「あゝあゝ」とか、「可哀そうな私」とか、不運、不幸とかを取り去り、死とは何か、追放とは何か、牢獄とは何か、毒とは何かということを学ぶように心することで、それは牢獄の中で「親愛なるクリトーンよ、もしそれが神々の御気に召すならば、そうなるがいいのだ」ということができるためで、「可哀そうな老人の私、これらのために私は白髪頭になったのだ」などということのないためなのである。誰がそれらのことをいっているか。諸君に私が誰か無名の賤しい人のことをいってるんだと思うか。プリアモスはそういっていないか。オイディプースはいっていないか。いやどれほど多くの王様たちがそういっているだろうか。一体悲劇というものは、外的なことを驚嘆している人々の苦悩が、そのような韻律で示されたものでなくて何であろうか。(エピクテートス『人生談義(上)』岩波文庫、p.29)

「そうです、しかし私の鼻汁が流れています。」それでは何のために君は手を持っているのか。ねえ君。自分で鼻汁を拭い取るためではないか。そうするとこの世で鼻汁が出るということは道理にかなったことですか。君はぶつぶついうよりも、拭い取る方がどれほど勝っているだろうか。(同上、p.35)

無理して読むのはよそう…

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